年明けから通っている歯科医院に関して一つ、気になることがある。その違和感には初診から気づいていた。
問診票の記入を終え治療室へと案内された僕は、言われるがままに可動式の椅子に横たわり、歯科衛生士さんの到着を待った。しばらく経ってやってきたその人は、前掛けを僕の首元に取り付け、その日の治療内容について説明してくれた。
まずは現在の歯の状態を確認するということで、腔内に光があたるようライトの位置と角度を調節した彼女は、こう語りかけてきた。
「それじゃ、あいてください」
ん? 今、自動詞だった?
何かの間違いかと思った僕はその無視できない違和感を必死に頭の隅においやり、平静を装い続けた。無事確認が終わり、先生も追加で確認を行うということで今度は先生の到着を待つ僕。やってきた先生と簡単な挨拶を交わし、再び向けられたライトを遮るためにまぶたを閉じるや否や、先生はこともなげにこう言い放った。
「はい、あいてくださーい」
え? やっぱり自動詞なの?
「あけてください」なら分かる。でも「あいてください」だから、僕の中の関西人が「いや、ワシは口ちゃうわ!」と突っ込んでくる。先生が確認を進めるなか、僕はすぐさま他の動詞に置き換えてその妥当性を確認し始める。「『立ってください』『座ってください』はおかしくない。でもその場合は僕全体に語りかけているから自動詞でも違和感がないのではないだろうか。口と対比するなら体の部位を指定してはどうだ……? 『膝を立ってください』『かかとをあがってください』はおかしい。というか、助詞が機能していない。そうか、人としての全体性が対象になっているときは自動詞が適当だが、部位を指定した途端に、僕という人間ではなく、僕の体の一部に語りかけているように聞こえるから違和感が生まれるのか、ふむふむ」などと考えていた。
僕は顎関節症の気があり、長時間口を大きく開けることができない。なので時間が経過するにつれて、徐々に口が閉じていってしまった。すると先生は優しくこう言った。
「頑張ってもうちょっとあけてくださいねー」
え? 他動詞でもOKなの?
僕の中では「この歯科医院=自動詞に支配された世界」だったのに、急に他動詞が出てくるもんだから、ついそちらに違和感を抱いてしまった。ルールが分からん。
しかしこの出来事から幾度となくこの歯科医院を訪れるうちに、少しずつパターンが見えてきた。どうやら治療や確認時の最初の呼びかけには自動詞、それ以降のアドホックな呼びかけには他動詞が使われているようなのだ。
パターンを認識した僕は、次に自動詞が使われる理由について考えるようになった。もしかしたら「あく(開く)」という言葉を僕が勝手に自動詞だと認識しているだけで、「あく」には「あける」という他動詞的な意味合いが含まれているのだろうか? 僕は四国出身だけど、実は標準語/関東弁では「あける」のことを「あく」と言うのではないか?
特に文献にあたることもなく、数々の可能性を考えた僕が行き着いた答えは「自動詞は優しく響く」であった。歯科医で使われる、腔内の水分を吸い取る小型掃除機みたいな機器がある(歯科用バキュームと呼ぶらしい)。あれを入れるときに、歯科衛生士さんが「入りますよ」と言った瞬間、ピンときたのだ。「入れますよ」だと腔内に侵入されるような印象を持つが、「入りますよ」だと歯科用バキュームが自ら入ってくるように聞こえる。つまり歯科衛生士さんの立場からすると、「私の意思とは関係なく、治療に必要なので歯科用バキュームがあなたの腔内に入りますよ」と、自らの攻撃性のなさを表明することができるというわけだ(と言い切っているが確認はしていない)。
それなら初回の呼びかけにだけ自動詞が用いられるのにも納得がいく。まずは攻撃性のなさを表明し、一旦口を開けさせてしまえば、患者である僕にとっては口が開いた状態がデフォルトになるので、「あけてください」という呼びかけにも恐怖心を抱かずに済むからだ。
これはかなり高等なコミュニケーションテクニックだなと感心しつつ、その日の治療を終えて建物を出ようとした僕は自動ドアに向かって心の中でつぶやいた。
「あいてください」
あれ? なんか違うな。