最近読んだ2冊の本で少々頭が混乱している。
1冊目は、『ストーリーが世界を滅ぼす』だ。『The Storytelling Animal』の著者としても知られるジョナサン・ゴットシャルは、この本の中で、人間がいかに物語の力に支配されているかを述べている。古くはプラトンから、最近ではアメリカ議会襲撃事件を例に挙げ、数々の研究を参照しつつ、人間は物事の理解に物語を適用し、その物語が自分自身をも形成すると彼は何度も繰り返す。
本で取り上げられていた研究の中でも特に興味深かったのが、ハイダー=ジンメル実験だ。心理学者のフリッツ・ハイダーと助手のマリアンヌ・ジンメルは、単純な図形が動き回るストップモーションアニメを再生し、被験者に何を“見た”か尋ねた。
件の映像を見ると、小さな三角形と丸は友人もしくは恋人のように、そして大きな三角形は二人を襲う暴漢または猛獣(はたまたエイリアン?)のように見える。大三角が囲いを抜け出す場面では驚きや恐怖が生まれ、枠内に入った小丸に大三角がにじり寄る(ように見える)ところには緊張感が漂う。そして小丸と小三角がフレーム外に脱出する(したように見える)と、つい一息ついてしまった。
1944年に行われた実験でこの映像を見た114名の被験者のうち、97%が僕のように何らかの物語をこの映像に見てとったとされている。しかもその内容はラブストーリーや家族ドラマの場合もあれば、コメディだと思い込んだ人もいたそうだ。
驚きなのが、この映像を逆再生したときに浮かび挙がってくるものだ。
この映像では物語が180度転換する(ように見える)。先ほどまで疑いなく「悪者」であったと思われた大三角が、今度は二人のすばしっこいテロリストに襲われる被害者のように映る。
そして先ほど猛獣が檻から抜けださんとする様子を描いたように見えた場面は、逆再生すると、レンガの家に三匹のこぶたが逃げ込む場面のような、つかの間の安心感を醸し出す。
さて、著者がこの実験の教訓として挙げている点は二つある。
創作者の意図を問わず、物語は見る者、聞く者が“創りだす”ものである
1より、物語は受け手によって異なる
これはまさに「ポストトゥルース」と呼ばれる状況(世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況)を作り出す要因であるように思われる。
インターネット以前、もしくはSNS以前の世界では、情報収集源の大半をマスメディアに頼っていたため、たとえ情報から生み出される個々の物語は違えど、それを疑う余地が充分に残されていた。
しかし今や“現実の物語”が生まれる場は、手のひらに収まるサイズのスクリーンへと砕け散り、個々の破片はインターネットを介してつながり合えるようになった。そのため特定の物語の不備や見落としを指摘する場が減り、盲信が広まりやすくなったのではないだろうか(これも僕なりの物語でしかないのだが)。
著者のゴットシャルも「ポスト真実の世界とは[……]確信が増した世界だ。どんなにいかれた物語を信じていようと、本物のエビデンスらしく見える山ほどの情報で裏付けを得られる世界なのだ」喝破する。
現実の認識が異なれば、社会にどう働きかけるか、どんな言動をとるかも変わってくる。著者はその様を「私たちは一生を通じて貪欲に物語を摂取する。そして食べたものによって私たちは作られていく」と描写する。
もしも人間が物語を通じて世界を理解しており、さらにその物語の型を家族や友人、メディアなど外部から学ぶとすれば、自由意思など存在するのだろうか。それが気になった僕は次なる本に手をつけた。