日記とエッセイのはざま:侵食するスタイル
ここ数か月ほど、日記文学やエッセイ未満の断章を集めたものを読むのにハマっている。品田遊(aka ダ・ヴィンチ・恐山)のウロマガや、千葉雅也の生活の哲学、それから「途中でやめる」のニュースレターみたいな感じの。ザ・日記文学だと、西村賢太の『一私小説書きの日乗』もとても良かった。
週報が数回で途絶えてしまったので、次なる試みとして、そういう思考の垂れ流しに近い、このニュースレターのタイトル通り日記とエッセイのはざまにあるものを書いてみたい。
前述の品田遊が「返事を求めているように見えないTwitterのリプライ」についてウロマガで触れていた。
彼はそういうリプに対して返信すべきか否かを検討していたら脳のリソースが圧迫されてしまうので返さないようにした結果、リプ全般を過小評価し、取るに足らないものとして扱うようになっていると気づいたそうだ。
これがTwitterなどネット上の一部の空間で限定的に現れる姿なのであれば問題ないが、おそらくそんなことはないだろう。ある場面での自分のあり方は他の場面でも表出するはずだ。
そうすると、実生活においても誰かの言ったことを、まるでTwitter上で見知らぬ人に投げかけられたクソリプのように扱ってしまう事態が発生する可能性がある。すでに起きているかもしれない。
そもそも状況に応じてコミュニケーションのモードを切り替えられるものなのだろうか? Twitterにおける他人の言うことを(積極的には)聞き入れないモード、家庭における家族やパートナーの言うことに耳を傾けるモード、みたいな感じで。
僕は日常のコミュニケーションのモードをオンラインに持ち込みがちだ。だからリプやメッセージにはある程度丁寧に返そうとするし、そうであるからこそ煩わしく感じることが多々ある。
ネット上でのコミュニケーションを軽やかに行える人は、そういったかたくるっしさがないように映る。かといってその人が実生活でも同じようなコミュニケーションスタイルかというとそうでもなさそうである、不思議。するとその人たちはオンラインペルソナを別途持っていて、それはオフラインペルソナからはある程度独立している、つまりはコミュニケーションモード、あるいはコミュニケーション主体を切り替えられているのだろう。
今の子ども、これから生まれる世代は幼少期からインターネットに触れ、もしかしたら未就学児の段階でオンラインのペルソナを獲得するようになるかもしれない。すると、その人の初期コミュニケーションモードはオンラインのそれになるのだろうか? オフラインよりもはるかに多様な人々が集まる空間で、その人のコミュニケーションモードはどのように発達してくのか?
イラついたときに、相手を消せない、自分が消えられないことにフラストレーションを感じたりするのだろうか。自分が口論した相手と、口論を終えた後も物理的な空間をともにしなければならないという現実に耐えられるのだろうか。