(前回の続き)
物語の恐ろしさに実感を伴う恐怖を覚えた僕は、物語という箱庭で踊らされている限り、人間に自由意志などあると言えるのか疑問を抱くようになった。そして前回紹介した『ストーリーが世界を滅ぼす』内で引用されていた『Free Will』を読み始めた。
著者の神経科学者・哲学者のサム・ハリスはポッドキャスト『Making Sense』のホストを務めており、エピソード241で本書と同じく自由意志をテーマに取り上げている。
彼は「自由意志など幻想だ」と主張する。その一例として挙げられているのが、1983年に発表されたとある研究だ。詳細は省くが、生理学者・医師のベンジャミン・リベットらが行った実験では、被験者が(自由意志に基づいて)とった動作の0.3秒前に、脳がその動作を行うために(行為者の意識に表れない形で)動き始めていたと分かった。動作が意思決定に先んじる、つまりは自由意志は無意識に従属することが判明したのだ。
より身近な例として、彼は上記のポッドキャストで聴取者にこう呼びかける。
「今から数秒間で映画のタイトルを思い浮かべてみよう。観たことがあるものでも、タイトルだけ知っているものでもかまわない。好きかどうかさえ関係ない。とにかく映画のタイトルを思い浮かべてみよう」
そのとき僕の頭には『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と『サウンド・オブ・メタル』『真実の行方』が思い浮かび、なんとなく『真実の行方』を選んだ。
続けて彼は問う「候補に挙がった作品はどのように頭に浮かんできた? 選んだ作品はどんな比較検討プロセスを経て選び出された?」と。
選出プロセスを逆に辿ってみると、『真実の行方』を選んだ理由は3つの中で一番思い出深く、何度か観返した映画だったからだろうと考えられる。しかし、同じ条件の映画は他にも存在するし、それ以外の2本が候補に挙がった理由は(どちらも好きだったが)比較的最近観て印象に残っている、ということ以外考えつかない。
つまり浮かび挙がった候補の中から1つを選んだ理由は説明できるが、候補が浮かびあがる過程については「思いついた」としか言いようがなく、これまでに観た映画をすべて並べてランク付けして上位3作品を選ぶようなことはしていない。
「『オズの魔法使い』はおそらくほとんどの人が知っているよね? どう、思い浮かんだ?」ハリスが続ける。
……知ってるし、思い浮かばなかった。
さらに彼は、限られた選択肢から1つを選び出すときの自由意志さえ否定する。これは前回の物語にまつわる話からも推察できる。僕が『真実の行方』を選んだのは、エドワードノートンへの憧れからが理由かもしれないし、そういう映画を観る人として他者に認識されたいからかもしれない、はたまたそれまでに観た映画から紡ぎ出された趣向に基づくのかもしれない。確かに突き詰めていくと、選び出すプロセスやその表出点(どんな比較基準が思い浮かぶか、それぞれにどのくらいの点数を与えるか、どの選択肢に重みをつけるかなど)をすべて完全にコントロールしているとは言いがたい。
この気づきに僕は絶望した。
外的な要因が人間に及ぼす影響についてはある程度認識しているつもりだったが、実存までをも疑ったことはこれまでなかったし、それを否定してニヒリズムに陥ってしまうことを恐れていたからだ。
しかし彼は運命論と決定論を明確に分けて考えている。絶対的な存在や法則によってすべては予め決まっているとする運命論に対し、物事の裏には因果関係が存在すると捉える決定論を彼は支持する(と僕は理解している)。すなわちある選択や決定が、のちの選択や決定、それらの可能性を左右するとしているということだ。
ここで一旦僕の思考は行き詰まった。「自分の意思では選択できないのだから、たとえある選択がそれ以降のすべての選択に影響を与えるとしても、自分が影響を及ぼせることなどないのではないか? つまりすべての主体的とされる行為は無駄なのではないか?」と。
このとき僕は彼の主張をそれなりに消化したつもりでいたが、実感を伴っては納得できておらず、さらにハリスの考えを受け入れることで自らの言動がどう変わるかについて、ネガティブな面以外考えられていなかった。何度もハリスの議論を読み聞きして自分の考えをまとめようとしてもまとまらず、疑問は頭の中にへばりついたままだった。
しかし少し期間をおいて改めてこの問いと向き合い、何度も抽象と具体を行き来するうちにバラバラだった考えがおぼろげながら輪郭を持ち出した。最終的に辿りついた僕なりの、現段階での結論が以下だ。
「自由意志が存在するかどうかは正直どうでもいい」
(結構考えたつもりなのにこの結論なのだから、「考える」とは「慣れる」作業にも近いのかもしれない……)
自由意志を発揮しているとこれまで考えていた事象について、その「自由」が及ぶ範囲はとてつもなく限られている(もしくは自由などない)が、手元にある選択肢は、その場面ではそれしかないのだから、経験と情報を駆使して、最善の選択をとればいい、ということだ。その狙いは因果の「果」への期待にある。
単純化のために転職を例にとってみよう。
僕はこの世に存在する職業のすべては知らない。滞在許可や学歴、職歴などから知っている職業の中でも選択できる(希望が叶うと思われる)ものは限られているし、転職したいタイミングで人員を募集する企業の数は限られている。転職について考えた日は寝不足で頭が働かず、最適な選択肢を思い浮かべられないかもしれない。これまでに築き上げられた偏見から特定の業界や職種に対してポジティブ・ネガティブな印象を持っている……など制限は無数にある。
例えばこれから宇宙飛行士を目指してもいいが、その選択肢は実現可能とも、目指したいとも僕は思わない。目指したくない理由は分からないが、目指したくないという気持ちはコントロールできない。
では、今思い浮かぶ選択肢の中で、どれが自分にとって最善かを考える。それは短期的な影響だけでなく、選択が将来的に及ぼす外的な影響を含め、認知バイアスに注意を払いながら、今後自分の自由や可能性が広がる選択肢を僕はとるだろう。たとえその選択が過去の選択に縛られていたとしても、その場限りで最善の選択をとる(と認識する)だけだ。
……そう、結論は自由意志を肯定しようが否定しようが変わらないのだ。自由意志があろうがあるまいが因果の「因」は変わらないのだから、選択が及ぼす影響、つまりは「果」(これは以降の因果の「因」に転じる)に着目し、将来の選択の幅を広げるだけなのだ。
人生をコントロールする神的存在としての自己や自由意思はなくとも、僕はその時々の状況で過去に左右されながらある選択をする。もしくは”無意識に選択した”後に自分で選択したと”錯覚”する。いずれにしろその選択は後の自分に影響を与える。選択する行為自体をコントロールできない以上、因に操られる自分に諦めの気持ちを抱きながら、望ましいと考えるあり方に少しでも近づくような選択をする、いや選択する気分に浸ればいいのではないか。自由意思を発揮したかどうかは自分の納得がいくか、つまりは気分の問題でしかなく、自らがとらわれた枠の中で選択した気になりつつ、自分のありたい姿につながるような道を未来の外的要因(心身の状態、人との繋がり、環境その他諸々)を考えつつ選んだ気になれば良いのではないだろうか。なぜなら自由意思は眼前の現実とは関係ないのだから。
ではこの考えが及ぶ範囲を他者にまで広げるとどうだろう。刑罰の根拠となる「行為の責任」についてはどう考えればいいのだろうか? 視点を変えれば、「罪を憎んで人を憎まず」を実感できるのではないだろうか? また新たな疑問に直面しながら、僕はひとまず本と目を閉じた。