日記とエッセイのはざま:一生笑いすぎた
何かと話題のThreadsのポストで「一生笑いすぎた」という表現を見かけ、ジェネレーションギャップを感じた。触れるコンテンツには文化差があり、同世代とも合わないことが多々あったからそこまで気にならなかったが、この言語感覚には虚を突かれた。
くそ真面目に解釈すると、「一生=長時間」「笑いすぎた=よく笑った」ということなのだろう。つまりは強調表現の連続と捉えられる。先日、ポッドキャスト番組『ゆる言語学ラジオ』が「〜させていただく」を例に、敬語の変化について取り上げていた。
「〜させていただく」という嫌われものの表現自体についての話も面白かったが、一般に敬語表現は時間が経つにつれてその"敬度"が漸減、つまりは摩耗するという指摘に膝を打った。
もしかしたら敬語以外の表現も使い続けることで味が薄れ、1. 既存表現→2. その強調型→3. 新しい表現、という変遷をたどるのかもしれない。「一生」と「笑いすぎた」は第二ステージにあたるように映るが、その先にはどんな表現が待っているのだろうか。
さて、その舞台となったのが登録者数1億人突破のニュースが話題の、Instagramを基盤にしたテキストベースのSNS「Threads」だ。
リリース日にアカウントを作って色々といじっているのだが、これまでInstagramで使ってきたアカウントとは紐付いていない別アカウントを今回作ってみた。その狙いはもう一人の自分をネット空間につくること。(この点については、ポッドキャストでも触れている)
フリーランスでメディア関連の仕事をしてきたこともあり、これまでSNSは多分に仕事の要素が含まれていた。それ以前も学生時代の友人との交流が主であったため、オフラインでの関係性がオンラインに持ち込まれた恰好になっていた。そんな背景もあってか気ままにつぶやくというよりは、意見なりニュースなり、何かしらを発表する場として機能していた。
そこで今回はこのニュースレターよりもっとカジュアルな、思考の垂れ流し先や日々の記録用にアカウントを作ってみたのだ。すると当然フォローする人の方向性も大きく変わったため、これが自分にどのような影響を与えるのかこれからが少し楽しみだ。