何かと話題のThreadsのポストで「一生笑いすぎた」という表現を見かけ、ジェネレーションギャップを感じた。触れるコンテンツには文化差があり、同世代とも合わないことが多々あったからそこまで気にならなかったが、この言語感覚には虚を突かれた。 くそ真面目に解釈すると、「一生=長時間」「笑いすぎた=よく笑った」ということなのだろう。つまりは強調表現の連続と捉えられる。先日、ポッドキャスト番組『ゆる言語学ラジオ』が「〜させていただく」を例に、敬語の変化について取り上げていた。 「〜させていただく」という嫌われものの表現自体についての話も面白かったが、一般に敬語表現は時間が経つにつれてその"敬度"が漸減、つまりは摩耗するという指摘に膝を打った。
日記とエッセイのはざま:一生笑いすぎた
日記とエッセイのはざま:一生笑いすぎた
日記とエッセイのはざま:一生笑いすぎた
何かと話題のThreadsのポストで「一生笑いすぎた」という表現を見かけ、ジェネレーションギャップを感じた。触れるコンテンツには文化差があり、同世代とも合わないことが多々あったからそこまで気にならなかったが、この言語感覚には虚を突かれた。 くそ真面目に解釈すると、「一生=長時間」「笑いすぎた=よく笑った」ということなのだろう。つまりは強調表現の連続と捉えられる。先日、ポッドキャスト番組『ゆる言語学ラジオ』が「〜させていただく」を例に、敬語の変化について取り上げていた。 「〜させていただく」という嫌われものの表現自体についての話も面白かったが、一般に敬語表現は時間が経つにつれてその"敬度"が漸減、つまりは摩耗するという指摘に膝を打った。